はじめに
「量子力学は直感的に理解できない」— これは、物理学を学ぶ者が最初に突きつけられる壁です。粒子が同時に2つの場所に存在し、観測するまで状態が決まらず、壁をすり抜ける。こうした量子現象は、私たちの日常的な物理的直感とは根本的に異なるものとして語られてきました。
しかし、2026年4月に Proceedings of the Royal Society A に掲載されたMITの研究が、この常識を根底から揺さぶっています。MITのJean-Jacques Slotine教授とWinfried Lohmiller研究員は、量子力学のシュレーディンガー方程式が、古典物理学のハミルトン・ヤコビ方程式と数学的に同一であることを厳密に示しました [1]。
つまり、量子の世界は「別世界の物理」ではなく、古典物理学の道具立てで完全に記述できる可能性があるのです。
古典物理学の「最小作用の原理」とは
この研究を理解するために、まず古典物理学の根幹にある最小作用の原理を確認しましょう。
ボールを投げると、ボールは放物線を描いて飛びます。なぜその軌道を選ぶのか? ニュートン力学では「力が加速度を生む」と説明しますが、もうひとつ、より深い記述方法があります。それが最小作用の原理です。
物体は、運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの差(ラグランジアン)を時間で積分した量 —「作用」— が最小になる経路を選びます。この原理を偏微分方程式として書き直したものがハミルトン・ヤコビ方程式です。
古典物理学では、ひとつの初期条件に対してひとつの経路が決まります。ボールの軌道はひとつだけ。これが、古典と量子の決定的な違いだと長く考えられてきました。
シュレーディンガー方程式との「意外な同一性」
Slotineらの発見の核心は、次の一文に集約されます。
「シュレーディンガー方程式とハミルトン・ヤコビ方程式は、密度の適切な計算を行えば、実質的に同一である」
彼らが行ったのは、ハミルトン・ヤコビ方程式に2つの要素を加えることでした。
1. 複数の古典経路を考慮する
古典物理学では通常、ひとつの最小作用経路だけを考えます。しかし現実には、作用を最小化する経路が複数存在しうる場合があります。Slotineらは、この多価の古典的作用(multi-valued classical action)をすべて考慮に入れました。
2. 「密度」を導入する
ここが最も革新的な部分です。各経路に沿った粒子の存在確率密度を、古典的な流体力学の考え方で計算します。
Lohmillerはこれを水道のホースに喩えています。「二重スリット実験を考えてみてください。壁に向けてホースで水を噴射するとしましょう。水は2つのスリットを通り抜け、向こう側の壁で干渉パターンを作ります。壁のある場所に水が多く集まっている(密度が高い)ということは、その経路に水滴が存在する確率が高いということです」
この2つの要素 — 複数の古典経路と、各経路に沿った密度 — を組み合わせることで、シュレーディンガー方程式の解(波動関数)を厳密に再現できることを証明したのです。
ファインマンの経路積分との違い
「複数の経路を考える」と聞くと、リチャード・ファインマンの経路積分を思い浮かべる方も多いでしょう。ファインマンのアプローチでは、粒子はあらゆる可能な経路を「同時に」通り、それぞれの経路に位相を割り当てて足し合わせます。理論としては美しいのですが、計算上は「無限個のジグザグ経路」を扱う必要があり、実用的な計算は困難を極めます。
Slotineらのアプローチは、これとは根本的に異なります。二重スリット実験の場合、ファインマンの方法では無限個の経路が必要ですが、新しい方法ではたった2つの古典経路(各スリットを通る経路)だけで、同じ波動関数を正確に計算できます。
これは単なる近似ではありません。厳密な等価性です。
検証された量子現象
研究チームは、この古典的フレームワークが以下の量子現象を正確に再現することを示しました。
- 二重スリット実験: 2つの古典経路と密度計算だけで、量子的な干渉縞パターンを完全に再現
- 量子トンネル効果: 古典的にはエネルギー障壁を超えられないはずの粒子が障壁を通り抜ける現象を、古典的作用から導出
- 水素原子の電子波: 水素原子中の電子の波動関数を古典的に計算
- アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼン(EPR)パラドックス: 量子もつれの問題にも古典的枠組みで対応
さらに、この結果はシュレーディンガー方程式だけでなく、相対論的な量子方程式(クライン=ゴルドン方程式、パウリ方程式、ディラック方程式、マクスウェル方程式)にも拡張されています。
この研究がもたらすインパクト
量子コンピュータへの応用
量子計算のシミュレーションにおいて、波動関数の計算は本質的な課題です。もし古典的な最小作用の計算だけで量子状態を厳密に記述できるなら、量子シミュレーションの効率が劇的に改善される可能性があります。特に、ファインマン経路積分に基づく従来の手法が無限個の経路を扱う必要があったのに対し、有限個の古典経路で済むという点は、計算コストの大幅な削減を意味します。
量子力学と一般相対性理論の統合
物理学最大の未解決問題のひとつが、量子力学と一般相対性理論の統合です。両者は異なる数学的言語で書かれているため、統一が困難でした。しかし、量子力学が古典的なハミルトン・ヤコビ方程式で記述できるならば、一般相対性理論との接点が格段に見つけやすくなる可能性があります。
量子力学の「解釈問題」への新しい視点
量子力学には「コペンハーゲン解釈」「多世界解釈」「ド・ブロイ=ボーム解釈」など、さまざまな解釈が並立しています。今回の研究は、量子現象が古典的な確率密度の流れとして記述できることを示しており、量子力学の基礎に関する長年の議論に新たな視座を提供するものです。
慎重に見るべき点
ただし、この成果をもって「量子力学は不要」と結論づけるのは早計です。
まず、Physics Forumsでの専門家の議論では、Peter Morgan(イェール大学)がこの研究を「古典物理学の拡張によって量子物理学を正常化する数十年の努力への歓迎すべき貢献」と評価する一方で、いくつかの根本的な問題を指摘しています。
- 文脈依存性(contextuality): 量子測定の結果が測定の文脈に依存するという性質を、この古典的枠組みが十分に扱えているか
- 量子ノイズと熱ノイズの区別: 量子力学特有のノイズ(ゼロ点揺らぎなど)と、古典的な熱ノイズが異なるローレンツ変換性を持つ点
- 解析的・非解析的周波数成分の役割: 量子場理論における正・負振動数の区別
また、この研究のarXivプレプリント(arXiv:2405.06328)は2024年5月に初投稿され、11回の改訂を経て2026年4月に正式出版に至っています。学術コミュニティでの検証はまだ始まったばかりであり、今後の追試と議論が不可欠です。
おわりに
「古典物理学と量子物理学は別世界だ」— 100年間の常識に、MITの研究チームは「実は同じ方程式だった」という回答を突きつけました。
もちろん、これで量子力学のすべての謎が解けたわけではありません。しかし、シュレーディンガー方程式という量子力学の根幹が、古典的な最小作用の原理と密度計算から厳密に導出できるという事実は、量子物理学の基礎を見直す重大な契機となりえます。
SlotineはMIT Newsのインタビューで述べています。「量子的な振る舞いを、非常にシンプルな古典的道具で計算できることを示したのです」
物理学の歴史は、一見異なる理論が実は同じものの異なる側面であったと判明する瞬間 — 電気と磁気の統合、時間と空間の統合 — によって前進してきました。今回の発見が、古典と量子の統合という物理学の新章を開くものになるのか。その答えは、これからの検証に委ねられています。
参考文献
[1] W. Lohmiller and J.-J. Slotine, "On computing quantum waves exactly from classical action," Proceedings of the Royal Society A, vol. 482, no. 2336, 20250413 (2026). DOI: 10.1098/rspa.2025.0413 / arXiv: 2405.06328
[2] MIT News, "New study bridges the worlds of classical and quantum physics," April 21, 2026. https://news.mit.edu/2026/new-study-bridges-classical-and-quantum-physics-0421
[3] Physics Forums Discussion Thread, "On computing quantum waves exactly from classical action." https://www.physicsforums.com/threads/on-computing-quantum-waves-exactly-from-classical-action.1084934/